142



 人間は歳を取ると記憶力が衰える。人名や物の名前や出来事が以前のように迅速に思い出せなくなってしまうのが通常だ。それはシリウス・ブラックのように、記憶の神に溺愛された男とて例外ではない。さすがの彼もこの歳になって、ごく稀にではあるが腕組みをして眉根に皺を寄せて失われた記憶と格闘するようになった。彼は失念した事物を思い出す作業においてまったくの孤立無援だったので、彼の戦いは常に孤独だった。彼に友人や家族がいなかったという意味ではない。シリウスには同い年の友人兼恋人兼同居人リーマス・ルーピンがいたが、彼はシリウスとは逆に忘却の神に愛されていた男だったのだ。
 ルーピンが思い出せない事柄を知ろうと思えば、たった一言シリウスに尋ねればよかった。高い確率で速やかに答えは彼に差し出される。しかしシリウスが思い出せない事柄をシリウスに尋ねる訳にはいかない。そういう事情で彼は先程から難しい顔をして椅子に掛けていた。時折額をテーブルに押し当てたりもしている。
 ハンサムな団子虫のようだ。ルーピンはそう思って友人に声をかけた。
「何が思い出せないんだっけ?」
 突っ伏したままでシリウスが呻く。
「歌だ。ホグワーツで流行していた歌。歌詞が途中から思い出せない」
 歌など思い出せなくても構わない。ルーピンならそういう方向に意志を向けただろう。しかしシリウスの辞書には落丁が多く、残念ながら「諦める」とか「退く」とかいう類の言葉は一切印刷されていない。
「歌ね。一応とはいえ私も同じ学校に在席していたから知っているかもしれないよ」
「お前は知らないさ」
「即答か。信用がないな」
「そうじゃない。こういう歌だ『俺のー○○○○がお前に××××したときー○○○はきっと×××ー。○○が×××を……』この続きだ」
「………………なんだその下品な歌は」
 ルーピンは腕を組んだ姿勢のまま固まった。
「だから聞かなかったんだ。お前がこの手の歌を知っている筈がないし」
「本当に流行していたのか?君とジェームズの間だけじゃなくて?」
「いや、流行していた。作詞作曲はジェームズだが」
「ああ……さすがの私も返答に困るな」
「それで『○○が×××を……』の続きなんだが」
「リピートしなくていい。……まあ文脈からして出すとか入れるとかその系統の言葉が入るんじゃないかな。よく分からないけど」
「しかしメロディ部分はラララララー、だから「出す」も「入れる」も字数が足りない」
 シリウスは机に突っ伏したまま小声で該当の箇所を何度も歌った。
「こら。口を塩水で洗うよ」
「歌詞が出てこない時は繰り返し歌うのが基本だろう」
「……もっとくだけた言葉なのかな。「ぶっ放す」、とか」
「・・・・・・」
「何だい?」
「いや、新鮮だったから。お前にそういう語彙は無いと思っていた」
「豊富とはいえないが、他ならぬ君の為に努力している」
「続けてくれリーマス」
「……ぶち撒ける」
「もっと下品な言葉だった気がする」
「……大放出」
「顔が赤い」
「私が何か言うたびに君が目を見開くからだ。すまないが私の力の及ぶところではなさそうだ。夕食の支度をしておくから心置きなく考えているといいよ」
「分かった。からかって悪かった。頼むからダーリン、何かヒントになるものをくれ」
「無理だよ。下品な語彙も知識も、私は君の100分の1もない」
「俺は下品博士なのか!」
「下品博士がこれだけ考えても出てこないんだから、言葉ではないのかもしれないね。造語とか擬音とか」
「あっ!」
「え?」
「それだ!」
「どれ?」
「擬音だ。『俺のー○○○○がお前に××××したときー○○○はきっと×××ー。○○が×××を○○○○○ー、2人で一緒に×××ー』」
「全部歌わなくていい!」
 慌てて遮ったルーピンを、立ち上がったシリウスは抱きしめる。そして部屋に響く程の音を立てて額にキスした。満面の笑顔だった。空気に彼の上機嫌が満ちて、ルーピンは仕方なく友人のテンションに合わせて空中で手のひらを鳴らしたり拳同士を合わせたりするパフォーマンスに付き合った。
「歌を思い出せないふりをして、私に恥ずかしい言葉を言わせているのかと疑い始めるところだったよ」
 のんびりとそう告白するルーピンに、はたと動きを止めてシリウスは真顔に戻った。
「それは思いつかなかったな」
「思いつかれても困る」
 友人の表情を見て身構えるルーピンに、シリウスは真面目に告げた。
「もう一度さっき言った言葉を繰り返してくれないか?俺の目を見ながら」
「当然ながら断る」
 そう返事されたシリウスは、落胆と悲哀と後悔の入り混じった、酷く暗い表情をした。その顔は歌が思い出せなかった先程よりも数段不幸そうだった。
 またハンサムな団子虫に戻ってしまった友人を置いて、ルーピンは居間から退席した。



幾つだ。
お前らは一体幾つなんだ。

映画「かもめ食堂」を見た後に書きました。
歌が思い出せないのはつらい。
(そして下品なのでアップするのがいやで
ずっと放置していた)

2007.05.15

BACK