149 シリウス・ブラックは巨大な犬の姿で密林を歩いていた。 彼のマグル殺しの嫌疑は少しも晴れておらず、相変わらず恐ろしい風体をしたシリウス・ブラックが幾千枚のポスターの中で大暴れしているというのが現状だった。彼と彼の友人ルーピンは必要があってその南の国にいたのだが、シリウスは旅先では用心をして本来の姿に戻るのを控えていた。 しかし黒い犬の姿というのは身を隠すのには優れているが、このような熱帯で快適に過ごすには著しく不向きのようにシリウスには思われた。そもそも毛の長さがこの土地の気候に合っていない。別に生物として正しく犬という訳ではないのだから、臨機応変に変化しても良さそうなものだが、黒い毛皮は相変わらず母国に適した保温能力を持っている。自分が小さな太陽にでもなってしまったかのような錯覚を覚えるほど、熱気は彼の体に集まっていた。シリウスは10分に1度の割合で川に飛び込んで溜息をついた。 「また川に入ったね。足元に気をつけて」 水音を聞きつけたのだろう、ルーピンの声がした。 彼はシリウスの後方を歩いている。密生する木々が邪魔をして、姿は見えない。念のためにシリウスが道の安全確認を兼ねて前を歩いているのだ。しかし何度も水を浴びているせいで、両者の距離は縮まっているようだった。 もう少ししたら、自分も彼も木陰で休憩をした方がいいなとシリウスが考えたときだった。埃っぽい道に落ちている石が、ごそりと動いた。 シリウスは緊張して頭を低くしたが、すぐにそれが熱帯地方にはポピュラーな爬虫類であると分かり緊張を解いた。それは亀だった。大きくはないが、小さくもない。 亀はビーズをはめ込んだような黒く小さな目で、どこかを見ていた。突然現れた巨大な犬に何の興味もないようだった。 爬虫類らしいマイペースぶりで、亀は一、二歩進み、また止まってしまう。シリウスは亀に近寄った。彼の大きな影が亀を覆ったが、矢張り爬虫類は気にする様子もない。 シリウスは他の同郷人と同じく、爬虫類に特別親愛の情を持っていなかった。子供の頃にもし亀が道端に落ちていたとしても、蹴り飛ばす以外の行動を自分がとったとは思えない。しかし、今現在の彼は違う。のそりと道を歩むその爬虫類に、彼は暴力を振るう気が起きない。 理由は考えるまでもなかった。亀はどことなく彼の友人を思わせるのである。 シリウスは同居している友人の様々な姿をふと思い浮かべた。 こちらを見ているのか見ていないのか定かでない、興味のなさそうな態度。置物と見紛わんばかりののんびりした動き。ベッドのスプリングを鳴らさないように、静かに手をついてこちらに移動してくる彼の平静な表情。常に満足そうな。「人間とやっているというより、亀に少しずつ食われている気持ちがする」シリウスは行為の最中にそう言ったこともある。ルーピンは特に否定をせず、「君はあらゆるものに私を譬えるのが好きだね」と笑って答えた。 御丁寧にも、その亀の甲羅は草色をしてる。 亀。なんて秀逸な譬えなのだろうとシリウスは思った。 乾いた甲羅に鼻を寄せる。何時間か日に晒されていたのだろう、乾いた匂いがした。このまま道を進むと干からびてしまうぞお前、とシリウスはそっと亀を銜える。それはようやく状況の変化に気付いたのか前後の足をばたばたとやりだした。その悠長な様子も強烈に誰かを思い出させて、シリウスは犬の姿で脱力した。まったく気楽なやつだ。川へ降ろしてやるからじっとしていろ。動くな亀リーマス。 土砂混じりの茶色い川の水に、シリウスが足をつけた途端、大きな声がした。 「こら!!」 シリウスは思わず銜えていた亀を落とした。 川辺の木の幹に手をついて、ルーピンがこちらを見下ろしていた。いつの間にかシリウスに追いついていたらしい。 ルーピンがシリウスに対して怒ることは滅多にない。なのでシリウスは最初のうち彼が大きな声を出したという認識しか出来なかった。次に彼が自分に対して怒っていると理解され、彼がこれほど真剣な声で自分を叱り付ける理由が、シリウスには1つしか思いつけなかった。 亀に譬えられるとは非常に遺憾であるという。 しかしシリウスは先ほどまでの考えを言葉に出してはいないし、そもそも現在は口が言葉を発せる形状をしていない。何が彼をそれと悟らせたのか皆目見当がつかず、シリウスの後ろ足が震えた。 落ちた亀はやれやれという感じで、下流へ向かって進みだす。 「生き物をおもちゃにしては駄目だよ」 ルーピンは言った。 シリウスがそのセリフを理解するのに3秒を要した。彼は亀を銜えていた口を閉じるのも忘れてルーピンを凝視した。 シリウスは犬の姿であっても表情豊かな男だったので、ルーピンは彼の異様な反応にすぐに気付いた。 「違うのかい?犬は亀を噛んで遊ぶのが大好きだと新聞に載っていたから……」 犬の瞳が揺らいで、見る見るうちに彼の傷心が伝わってきた。ルーピンは自らの失敗に心が痛くなって、慌てて詫びる。 「すまない。誤解だったようだ。君は亀で遊んだりしない。本当に済まない」 いくら詫びられても、どう詫びられても、欠けたシリウスのプライドは元には戻らなかった。自分は亀を噛んでおもちゃにするような男だと思われている、しかも恋人から。という新鮮な驚きと屈辱が交互にフォルティシモをくれてシリウスを打ちのめした。 亀など!お前に似ていなければ俺は見向きもしなかった! どんなに彼は訴えたかっただろう。しかし密林の中とはいえ、人が通らぬわけではない。ここで姿を変えるわけにはいかなかった。 亀ではなく、お前をこそ噛んでやりたい。 悲しい気持ちをこめて、シリウスは大きく吠える。そして彼は身を翻すと川沿いに上流へと駆けていった。止める間もない。彼の吠え声は、久し振りで慣れていなかったせいか、犬のものであるようなそうでないような不思議な声だった。遠くで聞き及んだ付近の人達は「あら、何の声かしら」と無邪気に噂をした。 2006/11/13の日記に書いた 犬は亀を噛むのが好きって新聞記事の話です。 なんかイギリスに亀は そうゴロゴロいるわけではなさそうなので 違う国にしました。 かわいそうなパッドフットを抱きしめてやりたい。 きっと猛烈に暑苦しいだろうけど、それでも。 2008.06.14 イベントのお礼としてUP 2008.08.21 再UP |