手紙と謎




 見覚えのあるルーピンのフクロウが居間に舞い降りたとき、ハリーは驚いて席から立ち上がった。向かいに座っているシリウスはどっしりと構えたまま形容し難い笑みを浮かべてフクロウから手紙を受け取る。

 ハリーが彼等の家を訪問した時、ルーピンは折り悪く仕事で不在だった。それは頻繁にある事ではないが、驚くほど珍しい事でもなかった。しかし仕事中のルーピンがシリウスに手紙を寄越すというのは、ハリーの記憶によれば1度もなかった筈だ。ハリーはルーピンの酷い筆不精を知っている。
「何か良くない知らせ?仕事先で困った事にでも?」
 とハリーはシリウスに尋ねたが、シリウスは優雅な仕草で封筒を開封し、それが恋人そのものであるかのように優しく手紙を取り出した。
「手紙を出すように言ったんだ」
 シリウスはちらりとハリーを見上げ、そして微笑みながら手紙に視線を戻す。
「それでも先生は注意されたくらいで手紙を出さないでしょう」
「注意じゃないなハリー。交渉したんだ」
 シリウスはハリーに返答をしながらも瞳は文章を追っていた。嬉しくて溜まらないというように時折口元を覆って笑みを隠す。そしてとうとう吹き出してしまった。
 ああ、とハリーは察する。シリウスの「交渉」にはおおよその見当がついた。「手紙をもらった記憶が殆どない」「これは我々のような関係の人間にとって異常な事だ」「家を出た途端、俺の存在など忘れ去っているのではないか」「一体お前にとって俺は何なのだ」。
 シリウスは、その気にさえなれば優秀な弁術の遣い手だ。ルーピン1人を理屈と勢いで押し伏せるのは訳もないだろう。なにしろあの元教師は極度の面倒くさがり屋なのだから。「分かった」としか返事ができなくなった気の毒な状態の教師を想像して、ハリーは暫し彼に同情する。
 しかし、好物を与えられて満足している犬猫の如き彼の表情を見ると、何かをとやかく言う気力をなくしてしまう。そう、元教師ほどではないがハリーもこの名付け親を愛しているのだ。
 ハリーが微妙な温度で見守っていると、満面の笑顔だったシリウスの表情に変化があった。それは徐々に広がり、やがて彼は眉間に皺を寄せ、手紙に顔を近づけた。そして顔を離したり斜めにしたり、また下げたりして如何にも深刻な表情で固まってしまう。
 15分が経過しただろうか。沈痛な面持ちで沈黙しているシリウスに、堪りかねてハリーは尋ねた。
「ええと?」
「ハリー、俺にはこれが理解できない。一体何の謎掛けだと思う?」
 気の毒なくらい意気消沈した彼はハリーに手紙を差し出してくる。ハリーが手紙を見ても構わないのかと尋ねると、シリウスは黙ってこっくりと頷いた。
 少年が慌てて目を通した文面はこのようなものだった。



やあ、シリウス。元気かな。

私は元気だよ。仕事もなかなか楽しい。みなさん良い人だ。

……急に手紙を書けと言われても書くことが見つからない。

昨日の夕食のスープはにんじんのスープだったよ。

それじゃあ。元気で。


 ハリーは知らぬうちに義父と良く似た笑顔を浮かべていた。ルーピンがこの文章を書くためにどれだけの時間を費やし、どれだけ悩んだかを考えると、申し訳ないとは思いながら矢張りおかしかった。たった5行の手紙にシリウスがあれだけ嬉しそうな顔をしたのも、ハリーには分かるような気がした。手紙を書くのに費やされた時間、手紙を書くことに集中している時の心、そういうものが丸ごと贈られるのが手紙だ。切り取られたその人の小さな分身。
 しかし、最後の行の異様なものを目にしたとき、ハリーの眉間にもくっきりと皺がよった。
「え?何これ」
「だろう!?」
 それは一見インクの染みのようだった。しかしいくつかのパーツがあり、絵のように見えなくもなかった。
「お前には何に見える?ハリー」
「……内臓?」
「俺には黒い巨人に見える」
「マグルの心理学でそういう絵があるんだけど」
「リーマスはマグルの心理学に詳しかったのか?授業で使ったり?」
「ううん、使わなかった。たぶん関係ないと思う」
「字ではないよな?大きな」
「違うでしょう。……黒いものっていうと、僕は犬が思い浮かぶん、だけど」
「まさか!犬だとしたら実物とは違う器官が付いている!幾つも」
「でもこれが首だとするでしょう、そうするとこれが耳でこれが尻尾に見えない?」
「しかしそうすると足が6本もあるぞ。首から生えているこれは何だ。触手か」
「首輪じゃないかな。ルーピン先生って絵は……」
「あまり……達者なほうでは、ないな」
「昔の暗号ではないの?ほら、いたずら仕掛け人時代の」
「こんな判読の困難な暗号が何の役に立つんだ」
「そうだよね……うん」
 ホーという柔らかい声がした。飼い主に似て鷹揚なフクロウは、水はおろか一瞥すらも与えられない自分の処遇に特になんの不満も持ってはおらぬようだ。ハリーは慌てて彼に水を運ぶ。フクロウはまたホーと一声鳴いた。
「返事……」
「だな」
 頭と頭を突き合せて手紙を覗き込んでいた親子は、真剣な顔で見つめあった。ルーピンのフクロウはどうやら返事を待っている。
「問題は、この部分にどうコメントするかだ」
「触れない方向でどうかな」
「リーマスがきっと、知恵を絞って書いてくれたに違いないものを無視するなど……」
「でもさ、実際何か分からないものに対してコメントするのは不可能だよね」
「一か八かの賭けに出てはどうだろう。『愛らしい犬だな。よく似ている』、と」
「足が6本で触手が生えていても?でも外れた場合、ルーピン先生がガッカリするんじゃないの?」
「そうだな……ええと……分からないなりにコメントするのはどうだ?『あの黒い何かは、とてもまろやかだな』とかそういう風に」
「それ返答自体が意味不明だから」
「ああ、こんなに真剣に悩んだのは何年ぶりだろう。頭が裂けそうだ」
「ちょっと、返事まだ?って目でこっち見てるよ。そろそろ書かないとシリウス」
「そんな事を言われても……」


 結局彼等は悩みに悩んだ末、絵の達者なシリウスが、ルーピンの絵の精緻な模写をして末尾に記すことで解決策とした。絵が何を描いたものであったとしても、大抵は意味が通るだろうとそう考えて。
 数日後、ルーピンは仕事から無事に戻ったが、あからさまに挙動不審に出迎える親子ににこにこと笑いながら彼は不思議そうに首をかしげた。別段何かに気分を害しているようには見えないルーピンに、若干安心してシリウスは手紙について礼を述べる。ルーピンが拙い己の文章にひとしきり照れた後でシリウスは恐る恐る末尾の謎の黒い物体について尋ねた。

 ルーピンの答えは明快だった。
「ああ、インクのビンを倒してしまってね。君も倒しただろう。お互いそそっかしいねえ」
 ハリーとシリウスはお互いに足でつつき合いをしながら笑った。その、どこかがむしゃらな笑い声に、矢張りルーピンはにこにこと笑いながら首をかしげていた。








BY にゃかむら

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