その木製の建物は、洞のような印象を与えた。天井が低く、薄暗く、廊下の向こうの出口だけが明るい。その光の中に、茶色い子犬みたいな色でなめらかに流れる川と、簡単な作りの船が見える。
 観光客が多いのか、船客の三分の一は白人だ。
 アジア人の区別はシリウスにはわからないが、タイ人はわかる気がする。真っ黒な瞳でじっとこちらを見て、目が合うとその焼けた肌には笑みが浮かんでいるのが、タイ人。
「タイ人はよく笑う。お前がいつも微笑んでいるから、つられるんだ。」
 シリウスがリーマスに耳打ちすると、彼は笑った。
「僕だって、こんなに綺麗なものを見たら笑顔になるよ。」
「ああ、そうだな。」
 桟橋を歩きながらシリウスは、遠く輝きを放ち、天を突く黄金の仏塔に目を遣る。
「陽射しが黄金のように強い輝きを持つのに、タイではさらにその下に黄金やガラスタイルがある。黄金がこんなに健全な輝きを持つとは知らなかった。黄金がもっとも似合うのは南国の空の下だな。女の指や首を飾るよりも、杖や杯を色どって富を主張するよりも、黄金は青空が一番似合う。」
 うん、そうだね、うん、とうなづいて聞いた後、リーマスは笑って囁いた。
「ところで、寺院じゃなくて君だよ。」
 3歩歩いた後、リーマスが何を言わんとしたか理解し、シリウスは目を輝かせた。
「俺も! 俺もリーマスを見ると笑顔になる! リーマスのことが好きだからだ!」とシリウスは子どものような主張をするが、リーマスはすでに遠い黄金の輝きに見とれていて「そうか、それは光栄だよ。」と上の空で答える。
「ああ、たしかに空に似合うねえ。」
 楽しそうにリーマスはつぶやいた。

 船はリーマスの手首よりも細い鉄棒が一本低い位置を巡るばかりで、その気にならなくても川にダイビングするのは簡単だ。
 木の椅子に並んで座って、すぐ足下で水面が揺れるのを眺める。
 メコン川に透度はない。大陸の大河らしい、アジアの肥沃な土を思わせる色をしていた。
「ミルクティーの色だね。ああ、その縁から簡単に河に飛び込めるね?」
 リーマスが言った、そのあたりから彼の様子はおかしかった。子どもみたいに無邪気でどこか真剣な集中力のある目で、陽光が乱反射する川面を見る。「甘いかな? 最近のミルクティーは甘さが足りないから」と呟く彼は今にも飛び込みそうで、シリウスはあわててリーマスの腕をつかんだ。「なんだい?」と首をかしげる恋人に、シリウスはとりあえず水のペットボトルを渡す。
「飲め。この水はすごく美味いぞ。川の水より確実に美味い。」
「じゃあ、君が飲んだ方がいい。僕は水の味がわからないからね。きれいな空だね、シリウス。この国の空は広いね。」
 そう笑うリーマスはいつものように穏やかで、シリウスは心配を忘れる。「そうだな。」と並んで空に見とれたシリウスは、口の中でわずかにつぶやかれたリーマスの声を聞きのがした。
「空はソーダ飴みたいな味かな。」
 リーマスは眠い子供みたいな目をしている。

 モーター音でぶるぶる震える船から下りると、美しい塔が見えた。ワット・アルンラーチャワラーラームという美しい呪文のような名を持つこの寺院は、二人の母国ではTemple of Dawnという。その細やかな色彩は、朝焼けの頃いっせいに始まる鳥のさえずりのようだ。
 寺院は、あまりにたくさんの色が使われているから遠目には灰色に見える、近づくと白い壁に色とりどりの皿が埋めこまれ美しい模様を形作るのがわかる。元は丸いであろう美しい柄の皿が、花の形にカットされたものもある。
 揃いのよろいの猿神たちの像が、塔を支えるかたちで埋め込まれている。首をかしげてそれを眺めるリーマスは上機嫌の様子だった。塔を上る急な外階段で、「大丈夫か?」とシリウスが差し出した手を「君がそんな風に階段の途中で振り向くほうが、危なげに見えるよ。」と笑って断るさまも、いつも通りに見えた。
 外階段の傾斜は鋭く、進むために前を見る首の角度も120度を超える。ただ塔と空だけを見上げて登る。「ああ、お花畑みたいだねぇ。」とリーマスが呟くのが聞こえた。白い壁に飾られる陶器の花を見回し、「そうだな。」とシリウスは返した。階段を上りきったところでリーマスに振り向く。リーマスは幼いほどの表情でにこにこして、急な階段のためか頬が赤い。子供みたいに目がきらきらしている、とシリウスは考えて気づいた。リーマスは目が潤んでいるのではないか?
「君、」 ろれつの回らない口調、人形劇みたいに急なしぐさで首を傾け、リーマスは笑った。「僕をつかまえてみる気はないかい?」
 突然、リーマスが走り出す。塔を囲む通路は、シリウスの名づけ子の額の傷のような形だ。寝そべった階段のような角度の、歩きにくい通路。それをものともせず駆けていく。シリウスはあわてて追いかける。リーマスは笑い出す。
 リーマスは足音すらさせない。靴に羽が生えたような身軽さだ。なのに、頭がふらりふらりとしている。右にふらりとすれば手すりの向こうに転げ落ちそうな、左にふらりとすれば歴史ある貴重な陶器にぶつかって割りそうな、危うさだ。
 走るごとに、鮮やかな黄色・青・橙・緑、それぞれのかたちの皿が、左の視界の端を流れる。宝石箱のようにこまごまとした細工と色彩がくるくると移り変わる。
 眩暈がする。リーマスは笑っている。空は青い。天国に迷い込んだような気分になる。
 リーマスの腕をつかんで引き寄せる。リーマスの熱い体を腕の中に捕まえ、足を止めるのと同時に色彩の流動は止まり、天国のような眩暈の感覚も消える。リーマスは小鳥が身じろぎをするみたいに笑い続け、シリウスはペットボトルの水をハンカチにかけて、リーマスの額に当て、水を飲ませる。
「大丈夫か?」
 衣服を緩めながら声をかけると、リーマスの熱っぽい目がシリウスを見、「ああ、天国みたいだ。」と呟いた。
「だって、こんなことはなかなかないと思わないか、僕の目には今、美しいものだけがあるんだよ。空と、寺院の尖塔と、君だよ。」
 そうして、彼のまぶたが熱に押されたように閉じられた。

 シリウスはリーマスを支えて階段を下り、芝生の木陰に休ませた。シリウスが走って買いに行ったスポーツドリンクを飲ませた頃、リーマスはいつもの彼に戻っていた。
「走ったのかい? 僕が? 寺院でそんなことをするのは非常識だろう。」
 と不思議そうに言い、寺院を見、空を見上げ、それからシリウスに振り向いた時は青ざめていた。
「…本当に、したのかい?」
 今度は貧血になりそうなその顔色に、シリウスは何も言わず、彼にもう一口ドリンクを飲ませた。悄然とする彼の頭を撫でる。手入れの悪い彼の髪が、あの空に近い寺院の上で、走るリズムに合わせて羽根のように弾んだのを思いだす。
「リーマス、さっき言いたかったんだが。俺の目に美しいものだけが映ることはよくあるんだ。リーマスが視界の中にいるだけで、世界が美しく見える。だから…」
「それは、何か僕が塔の上で言ったことに対する返事なのかな?」
 熱るまぶたの隙間からこちらを見るリーマスの頭を、シリウスは撫でた。
「…リーマスの頭がもう少し涼しくなってから言うよ。」
「そうかい? …ちょうど僕も今、見えるものはきれいなものばかりだと思って…」
 言いかけた声がくぐもり、リーマスは目を閉じた。続く言葉を口にするのをためらったのかもしれないし、塔の上で何を言ったのか思い出したのかもしれない。
 飲み込んだ言葉のためか暑気あたりのためか彼の頬は赤く、その様子を眺めながら、シリウスは抱きしめることはできない。「なんて可愛い顔をするんだリーマス!」と叫ぶことすら我慢し、餌皿の前で「待て」を言われた犬のように心を抑えて、彼の手足を濡れたタオルで冷やし、パンフレットで風を送る。
 その後「リーマスが走る姿は天使みたいだった」とうっとり呟いて、看病される人に真剣に熱射病を心配されたため、シリウスは更に無口となった。
 芝生が陽光を反射して、南の花と水の香りの風に揺れて輝く。木陰にいてさえ視界は明るく、遠い空は澄み渡る。シリウスがこみ上げた言葉を飲み込んだ時、それと同じ言葉をリーマスが呟くのが聞こえた。
「ああ、天国みたいだね。」

 シリウスは「俺は今、地に足がついているのが、天国みたいにありがたいよ。」と答え、リーマスは笑い転げた。








BY  yukich

BACK