今にも泣き出しそうだった雨が音を立てて降り出したのは、就業時刻をとうに過ぎた7時半過ぎの事だった。
一般的なサラリーマンと違い、公務員でありながらも特殊な警察という職場にあって捜査課の刑事と言う者はそれをさらに特殊さを増すもので、仕事柄、残業はざらだった。
肩書きは特捜課課長でありながら現場にこだわるのか、階級にはこだわらないのかキャリアの癖してまだ警部補の冴子は捜査とは全く別の書類整理に追われている事もなんら不思議ではなかった。
窓をたたく雨音が嫌な記憶を引きずり出すのには最適な雨だった。
忘れもしない一本の電話。
明日の用事を裏切る一本の電話………。
「冴子」
かけてきた電話の相手の声はいつもより険しい。
表面上は軽さを見せてもその奥底には底冷えするほどの何かを持ち合わせている男がいつもは消しているそれを表に出している。
「あなたからの電話なんて珍しいわね、撩」
その声音に気付かないふりをして冴子は撩の呼びかけに答えた。
「槙村が死んだ」
撩の言葉は何を言ったのか、理解出来なかった。
「相手はユニオン・テオーペの先兵。って言うよりもエンジェルダストを撃った雑魚だけどな」
「撩、どういう事?」
冴子は、まだ理解出来ていない。
「南米を拠点とする麻薬密売組織ユニオン・テオーペが日本に侵攻しているって言うのは知ってるだろう?」
「え、えぇ」
撩の言葉に冴子はうなずく。
まだそれと槙村の死が結びついていない。
「依頼の交渉で行ったのがシルキィ・クラブ」
その言葉に冴子は停止していた頭が急速に回転していく事に気が付いた。
シルキィ・クラブ。
表向きは普通のクラブだが、その裏ではありとあらゆるモノが売買されているという噂のクラブだ。
そこで行われている事を特捜課は分かっていながら証拠不十分と言う事で踏み込めないでいた。
「槙村は…ユニオンの依頼をけった。ただ、それだけさ」
淡々とだが、怒りを隠さない男に冴子は流れ出ようとする涙を我慢するかのように天を仰ぐ。
「どうするの…」
「俺は、今からあいつらを殺りに行く」
「撩」
「だから、後始末頼んだぜ。冴子。それから、俺のマンションに来い。あいつは、お前が引き取れ」
「香さんは、槙村の妹がいるでしょう?」
撩の言葉に冴子はまだ会った事がない槙村の妹の名前を出す。
兄が死んだのだ、その遺体を自分に引き取れと言うのはあまりにもひどい言い草ではないのだろうか。
「香は、まだ槙村が死んだ事を知らない」
「…撩っ」
「お前も知ってるだろ?今日はあいつの誕生日だって」
そう、今日3月31日は香の誕生日だった。
槙村は彼女に真実を打ち明け…そして、明日に、冴子との用事を入れていた。
「そんな日にいえるか?アニキが死んだなんて」
撩の声に、最初に感じた底冷えするほどの何かを感じない。
どこか、かすかな柔らかさがある。
「…あなた、香さんに会った事あるの?」
「まぁ……な」
どこかはぎれの悪い言い方に冴子はそれ以上突っ込む事をやめる。
「…警察で預かっててくれよ。あんな槙村を香には見せられねぇよ」
「分かったわ。槙村の遺体は、警視庁の方で引き取る。葬儀の準備もしておく。彼女…無理かもしれないから」
「頼んだぜ。まだ香は死んだ事を知らない。俺から言う。だから、お前達からは何もいうな。いいな」
「えぇ」
冴子がうなずいた事を確認して撩は電話を切った。
静かに電話をおいて、目頭を押さえる。
涙があふれてもおかしくなかった。
鼻をすすり、涙をごまかす。
そして立ち上がり、でかけるむねを告げ冴子は上着を羽織り、自分の車でアパートまで向かう。
爆音をたて、アパートに止めてみれば、槙村は車庫の中に腕を組んで静かに眠っていた。
…死後硬直と血色のない顔とむせ返るような鉄錆びのにおいと、どす黒く変色した上着さえなければ、眠っているとしか思えないだろう。
「…槙村…」
その場にひざから崩れ落ち冴子は低くつぶやく。
「………」
流れる涙がなかった。
流そうとしても流れなかった。
あっても、今はなきたくなかった。
温度のない身体にそっと触れる。
「……迎えに来たわ」
いつだったかまだ、自分と組んでいた時の頃だったか。
『…野上警部補、ポルシェが覆面車というのはどうかと…』
「あら、逃げられるよりは、良いと思わなくって?」
『確かに』
自分の答は明らかにまともではないのに槙村はいとも簡単に冴子のそばに来て彼女を安心させる言葉を言う。
そんなところが一匹狼を気取っていた撩も気に入っていた所ナノだろう。
妙に気の合ったふたりは、パートナーとして仕事を共にしていた。
危険な仕事を…。
「あなたを警察に戻そうとしたのよ?」
なんて言ったら、槙村はどんな顔をするのだろうか、そんな事を考えて冴子は警視庁へと連絡を入れた
霊安室へと来た彼女はどこか中世的なモノを見せて室井警視に頭を下げた。
「確認お願いします」
愚直な室井警視は彼女を霊安室の中心に安置されている遺体へと案内する。
彼女の後に着いていた撩は冴子がいる事に気が付いたのかちらりと視線を向けて部屋に入る。
「…大丈夫か?」
肩を抱かない。
でも、彼女に触れられる距離に撩はいた。
「香?」
「…大丈夫」
静かに答えた香はまっすぐに白布が掛かった遺体を見つめる。
「……失礼します」
そう言って室井警視が顔にかぶせていた白布を取り外す。
部屋の外からでも見える槙村の表情。
穏やかでありながら血色がない。
あれをデスマスクというのかと今更ながらに、気が付く。
「…間違いありませんか?」
「…はい、兄です」
香は気丈にふるまっているのか、室井警視をまっすぐに見る。
「どうする?すこし槙村と話すか?」
撩の問いに香は小さくうなずいた。
「外にいるから、終わったら呼べよ」
20になったばかりの香はそう撩の言葉にうなずく様はどこか子供のように見えて、槙村の死の衝撃がかなり大きかったのを如実に表しているようだった。
でも、どこか壊れそうなそんな雰囲気を持ち合わせていた。
だから、撩はついてきたのかも知れない。
親友の妹。
その親友は自分といたがために殺された。
撩は心の内でそんな事を思っているような気がした。
だから、彼女に必要以上に近寄らなかったのだ。