別に、大人になりたくない訳じゃない。
でも今まで通りに自由に生きられないのがつまらないだけ。
逢いたいときに会いに行くとか。
殴りたかったら殴るとか。
なんて言ったら姫らしくないって馬鹿にするんだろうけど。
春の晴れたその日。
桜が咲き乱れる。
官位はさほど高くはないが、そこら辺の貴族に引けを取らないその屋敷には桜の花が咲き乱れていた。
匂い立つほどの桜の多さにそこに来ていた男は立ちどまる。
「まさか弾正尹宮(だんじょういんのみや)様直々に我が屋敷に来られるとは思っても見なかったが?」
「…嫌味か?少将」
「言ったオレとしては冗談だったんだがな。まぁ、ホントに来るとは思わなかったよ宮」
「少将、お前の可愛い妹の裳着だろうが。あのおてんばがどうなったか。それにお前ともそれに前参議殿とも親しいから来てやっただけだ」
宮と呼ばれた男はそう呟く。
「おてんばと言うな。だいたい、お前が妹姫と一緒にいたのはあの娘が3つになる前ぐらいまでだろうが。まぁ、期待していてくれ妹姫は可愛い。父もオレも可愛いと思ってる。父ももう少し官位が上だったら東宮妃にとでも思ったぐらいだ」
「おいおい。あんなとこ押し込めてどうすんだよ」
「まぁ、姫を持った男親の戯言とでも思ってくれ、最もオレは東宮妃にしようとは思ってもいないがな」
直衣に身を包んだ男達の会話に屋敷に仕える女房達は色めき立つ。
弾正尹宮と言えば、見目麗しく才にあふれた人物。
ただ、一つ重大な欠点があり、元服してから后、斎宮(さいぐう)の様な高貴な女性から下層の女まで…噂だけでも両の手では足りぬほどに、流した浮き名は数知れずという宮様だった。
とはいえ、身に纏う衣装は最上級。燻らせる薫りも特等級と言うほどの風流人だった。
少将と言えば、蔵人に属し、帝の覚えもめでたい公達の一人であった。
左大臣の一の姫と恋仲とも噂があるがきわめてまじめで優秀な公達だった。
「秀幸様、少しよろしいでしょうか」
屋敷の者が少将に問いかける。
寝殿(しんでん)の方で何かあったのかと顔を曇らせる少将に宮は視線で頷き、その場を離れた。
見事に咲き誇る櫻。
山桜の他に枝垂れ桜、古い都の方に咲く八重桜、ありとあらゆる桜が咲いていた。
宵の闇に映えるように今日は格別に明かりがそこかしこに照らされ、桜のあでやかさがいっそう際立っていた。
「見事だな…」
弾正尹宮は呟く。
「で、お前はそこで何をやってるんだ?薫君」
弾正尹宮が見上げたそこには狩衣に身を包んだ少年…いや少女がいた。
「わざわざ嫌味を言いにここまで来たのかよ」
「いいかげんそこからおりてこいよ」
「嫌だ」
「お前ねぇ。絵梨子さんが探しに来るぞ」
「それは困る」
「だったら、降りてこいよ」
弾正尹宮の言葉に薫と呼ばれた少女?はしぶしぶ降りる。
「お前ねぇ、何でそんな格好してんだよ」
「撩には関係ない」
「関係なくもねえだろう?俺が何でここにいると思ってるんだよ、香姫」
弾正尹宮の言葉に薫…いや香姫は首をかしげる。
「あんたがここにいる理由なんて知りたくもないけど?どうせ今日の儀式の客でしょう?」
「そうなんだがな…」
「………………………嫌な予感がする」
言葉を濁した弾正尹宮に香は顔をゆがませる。
「まぁ、袴着(はかまぎ)も俺が見てやったからな」
「何で?何で?何であんたがやるの?兄上だって父上だっていいじゃないのよっ」
「普通、着袴親や腰結いは親族の御位の高いモノがやるって決まってるの。だから俺」
「宮様だからって偉そうに」
「偉そうにってなぁ」
自ら槇村参議の末姫の袴着を申し出た訳じゃない。
親友でもあり乳兄弟でもある少将秀幸とその父槇村参議に懇願されたからだ。
弾正尹宮自身、この屋敷と縁がない訳ではない。
幼い頃から元服するまでこの屋敷にとどまっていた。
末姫の袴着の時は元服してすぐの時だったと弾正尹宮は記憶していた。
「仕方ないでしょう香姫」
「姫って呼ばないでよ」
そう言って香は憤慨した。
弾正尹宮と香があったのは久しぶりではない。
兄である秀幸少将はしらないが、出掛け先で何度かあっていたのだ。
最初の再会はサイアクだった。
香は思い出したくもないから余計に機嫌が悪くなる。
が…今、機嫌が悪いのはそれだけじゃないと分かってもいた。
だから狩衣を着て部屋から抜け出したのだ。
「いいかげんにふてくされるのはやめとけ。少将と参議殿に心配かけるつもりか?」
「そういうんじゃない…から…」
「じゃあ、どういうんだよ」
弾正尹宮の言葉に香は俯く。
「ただ…裳着を終わったら…いろいろとつまんないなぁって思って。だって、こうやって撩と会える事もないでしょう?まあ、あんたは宮様だから、そう簡単に会えるような人じゃないって分かってるけどさ……。なんか、閉じこめられる気分で、つまんない……」
そう言って俯いていた顔を香は弾正尹宮に見せないように顔を隠す。
「そんなんで寂しがってたのかよ香ちゃんは。で、なんで狩衣なんか着てるんだ?」
狩衣を着ている意味を弾正尹宮は問いただす。
嫌な予感は少しはしているのだが、あえて考えないようにする。
「これだったら屋敷抜け出すのも簡単かなぁっと…」
「お前ねぇ、裳着を迎えるからお姫さまらしくなったかと思えば、ヤッパリお転婆なのは変わらず仕舞いかよ」
「悪かったわね。お転婆で」
苦笑した弾正尹宮に対し香はまた一度あげた顔を俯かせた。
「ちゃんと、綺麗に化けろよ」
「そう言う言い方やめてよ」
弾正尹宮が茶化すように言った言葉に香は反応する。
「少将も参議殿もお前が一番可愛いって思ってるんだ、下手な公達は連れてこねぇよ。俺もいるしな」
「……どういう意味よそれ」
突然吐き出された弾正尹宮の言葉に香は訝しげに宮の顔を見る。
「まぁ、なんだ…。寂しいんだろ、つまんないんだろ?だったらいつでも遊びに来てやるよ。そうだ、お前、俺の屋敷に来た事なかったよな。少将はいつでも来るんだが…、後で車寄越してやるから」
「……いいの?」
「当然だろ」
「………ありがとう、撩」
「……ば、ば〜か、礼なんざいらねぇよ」
弾正尹宮に憂いのない笑顔を見せる香に宮は思わず言葉がどもる事に気付いた。
「宮様、こちらで何をしてるんですか?」
と、女房が呼ぶ。
弾正尹宮もよく知る女房。
「………香っ。あなた、何でそんな格好してるのよっ」
女房は弾正尹宮の後ろに隠れている香を発見する。
「え、絵梨子」
「いい訳はダメよ。絶対にダメっ。せっかくあなたのために用意してるのに、どうして狩衣なんか着てるのよ」
「だってこっちの方が楽だし……」
「弾正尹宮様も何か言ってくださいっ。香ってばずっと狩衣とか水干しか着ないんですよっ。今日はどういう日なのかあなた分かってるわよねぇ」
「分かってるってばぁ……」
「ほら、さっさと着替えてこいよ。そのうち少将がこっちに来るぞ。今日はお前の裳着なんだからな」
そう言って弾正尹宮は呼びに来た女房と共に寝殿の方に向かう。
「………撩っ………」
意を決したように香は弾正尹宮を呼び止めた。
「ん?」
「期待して待っててよね」
「期待しないで待っとく」
「あんたねぇ!!!!」
香の言葉に苦笑しながら、弾正尹宮は寝殿へと歩みを勧めた。
どんな風になって現れるのか期待しながら。