「……君しか頼む人はいないんだよ……」
いつもみる様相とはまったく別の顔で彼は私に頭を下げる。
それは『彼女』をそこまで愛していたという証拠なのかと思って私はうなずく以外になかった。
絵梨子は鏡をのぞく。
結局あれからずっと泣いていたのか…目ははれぼったい。
こんなのは『彼女』がいなくなって以来だとふと思い出す。
親友だった『彼女』は2年前に亡くなっている。
そして、今日その恋人も死んだ。
絵梨子に厄介な頼みごとをして。
事の始まりは1週間前だった。
妙な様子で彼は自分のオフィスにやってきたのだ。
いつもの調子なのは相変わらずだったけど。
「あなたねぇ、おとなしく私のオフィスに来れないの?」
廊下で響き渡った怒声と叫び声にため息がつく。
「いやぁ、これさぁ、習性でねぇ。絵梨子さぁ〜ん」
「冴羽さん!!!!!」
すんでのところで出そうになる言葉をぐっと飲み込んで絵梨子は抱きついてきた撩をハンマーで殴り飛ばす。
「い、いたい。絵梨子さん。ハンマーどっから出したんだよ」
「香にもらったの」
そう投げ捨てるように言えば撩は黙り込んだ。
黙り込んだ撩の様子はいつもとは違う。
絵梨子ではどう違うかは説明出来ないほどの小さなものではあるが。
「頼みがあるんだ」
静かに撩は言う。
「…………冴羽さんらしくないわね」
「君しか出来ないからさ。他の連中には知られたくない。オレと香の事を表の面から知っていた君しか頼めない」
そう言った撩の顔は隣に香がいるようにどこか穏やかだったのをはっきりと覚えている。
「頼みごとって?」
「二つさ。一つは用立ててもらいたい。君のデザイナーとしての腕を信じてるからね。ついでに熱狂的な香好き」
「香好きって言うのは変な言い方じゃない?」
「間違ってないだろ?君は香を何度モデルに使いたがってたか。オレが一番知ってる」
そう胸はって断言する撩に絵梨子は笑う。
「いいわ。何を用意するの?」
「それは後から言うさ。もう一つは伝言を頼みたい」
「誰に?」
「…日時を指定する。その日、その時間にこの場所に電話して欲しい」
そう言って撩はメモを絵梨子に渡す。
「どなたの電話番号?」
「………俺達を一番心配する奴らの筆頭。あいつのアニキの元カノ」
あっさりと言う撩に絵梨子は何かを不安に覚える。
「何を……冴羽さん」
「頼まれてくれるか。オレの伝言」
そう撩は清々しく微笑んだ。
時計を見て絵梨子は電話をかける。
二人を心配して彼女の兄の恋人だったという人間。
香からその話は聞いた事があった。
兄には何度も会った事がある。
その猫背を直したほうが良いと何度も言った事がある。
その兄の恋人だった人物にも絵梨子は何度か逢った事があった。
あの時も。
『…ハイ、野上です』
「朝早く申し訳ありません。私、北原絵梨子ともうしますが」
『…香さんの』
絵梨子とも面識があった冴子は突然の絵梨子からの電話に戸惑う。
何か事件でもあったのだろうか。
そんな事が頭をよぎる。
『どうかなさって?』
絵梨子を興奮させないようにか冴子は落ち着いて問い掛ける。
「伝言を、承りました」
絵梨子はそう感情を入れずに伝える。
『どなた…から?』
絵梨子の言い回しに冴子は戸惑う。
ふたりは面識がないはずではないのに。
「冴羽さんからです」
絵梨子の言葉に冴子は小さく驚く。
それを無視して絵梨子は言葉を紡ぎ始める。
「………香に、今から逢いに行く……と」
その言葉に冴子は息を呑む。
その意味が瞬時に分かった冴子は戸惑う。
『何を考えてるのあいつは』
「冴羽さんは、こうも言ってました。槇村への伝言受け取れなくって悪いと」
絵梨子は淡々と言葉を吐き出していく。
何度も、何度も繰り返した通りに。
撩が帰ってから絵梨子は冴子に伝える言葉をずっと繰り返し考え続けていた。
感情の赴くまま言ってしまえば自分と相手も混乱するのは明白で。
だからといって事務的にも伝えたくなかった。
『…撩は、他に何か言ってなかった?』
「……義務はもう終わり……」
窓の外を見ながら最後に呟いた言葉は忘れようたって忘れられなかった。
『…そう、あのバカ、何処にいるの?』
「……香……の所です」
悪態ついた冴子に絵梨子は静かに言った。
撩はあの場所にいる。
あの場所から全てやり直す。
そう言って、自分から二つ受け取って撩はその場所に行った。
冴子は、その事をまだ知らない。
その場で思わず冴子は立ち尽くした。
冴子だけじゃない。
共に来たミック、海坊主、麗香に美樹もだ。
そして誰も何も言葉を吐けなかった。
その場に来るまでさんざん文句を言っていたのにも関わらず。
香が眠る墓はその墓地の中で都内が見える場所に作られている。
お墓を指定したのは香。
しぶしぶ了承したのは撩。
「生きているうちから墓決めてどうすんだ」
と悪態ついてるのをミックとかずえは笑って聞いていた。
その場所は新宿の町並みがよく見える。
そこで香が好きだった花を全て敷き詰めて一束ブーケにして。
レースをかけて、ウェディングドレスがおかれた墓に寄り掛かるように撩は眠るように死んでいた。
片手には愛銃を持って。
血は四散しておらず、ウエディングドレスを纏っている墓には一滴も掛かっていない。
こめかみから流れ出ている血をみなければ、撩は眠っている様にしか見えないだろう……。
だが、血色をなくし土色を見せている撩の姿はすでにどうあがいても死んでいるようにしか見えなかった。
だがその顔はとても安らかで、幸せそうにしか見えなかった。
「……結婚式って事か」
海坊主が呟く。
「いつかはやるとは思ってたけどね」
「ミック…あなた知ってたの?」
軽く呟いたミックの言葉に冴子は反応する。
「残念だが、オレは知らないさ。だが、リョウの考える事は分かるから。サエコ、君も分かるだろう?愛する者が死んだ。リョウにとってカオリはなくてはならないもの。全てだった。カオリがいたからリョウはこの街にとどまり続けた。愛する者がいない世界で生きていくにはあまりにもつらすぎる」
「……だからって死ぬ事ないじゃない。……彼女はどうするのよ」
「レイカ、彼女はあくまでも入れ物。カオリじゃない。それにその言葉は君らしくないな。君は彼女を嫌っていたはずなのに」
「そ…それは………」
ミックの言葉に麗香は目をそらす。
「……わたしには分からないわよ。死ぬ理由が」
「香さんが死んでから、撩は茫然自失になっていた。生きる事も死ぬ事も。彼が生きていたのは香さんが撩には死んで欲しくなかったからよ。だから『彼女』はドナー登録のカードも持っていた。…自分の生命で撩が助かるのなら、そうしようと。だから撩が生きていたのは香さんの意思」
冴子はバッグから出したローマンを静かに墓に置く。
「香の心臓を取り出した相手を殺す事が撩の目的となったが……」
「とうの目的の相手は香さんの記憶を持っていた……皮肉ね……」
「そう………そして撩は少しでも香さんと共にある事を選んだ。それがただの記憶であるとしても」
海坊主と美樹の言葉を継いで冴子は静かに呟く。
「……でも、それと同時にリョウに取ってそれは無意味になってきたのさ。記憶と共にあり続けるのが自分にとって良い事なのか。カオリが望んだある意味家族が出来た事がリョウにとって必要だったのか。リョウは悩み続けた。いや、悩む必要もなかったんだろう?」
「だから……それで死を選んだの?生きる意味がないから?」
「…………だろうね。さっさとカオリの所に行けば良かったのにさ。ぐだぐだ悩むのはこいつの癖だなありゃ」
軽口をたたいたミックに海坊主は小さくため息をついた。
不意に美樹が持つ携帯電話が鳴る。
出かける時に持って出た携帯電話。
相手はかすみ。
「かすみちゃんどうしたの?」
『美樹さん、彼女が倒れたの。教授の所にこれから連れていくわ。ついでに冴羽さんに逢ったら伝えておいて』
まだ撩の死を知らないかすみは美樹にそう告げる。
「どうした」
「………彼女が倒れたそうよ………」
美樹は携帯を切り、そう言う。
「…撩が死んだ事を、彼女はきがついたの?」
「……それとも香さん?」
麗香の言葉に誰もが黙り込んだ。
「………あっけない物だな」
ミックはテーブルに置かれたバーボンを飲みながら呟く。
「……そうね」
ミックの言葉の意味が分かったのかかずえは相づちを打つ。
キャッツアイに来て倒れた彼女の容体は記憶を失うと言うことで元にもどった。
正しくいうなら『彼女』の記憶を失ったのだが。
「麗香さんの言葉を借りるならば、彼女の心臓に宿っていた香さんの記憶が冴羽さんが死んだ事を勘付いて…って事なのよね」
「非科学的だと君は否定するかい?免疫学だけでなく多方面に手を出している君はある意味科学の先端にいるのと一緒だけど……」
「否定したいけれど……冴羽さんと香さんの事に関しては……あまり否定したくないわ。正直言うとこれで良かったって思うの。ねぇ、ミック。ミックはどうして冴羽さんが死ぬと分かっていたの?」
「……裏の世界の男っていう性格のせいかな?」
ミックの言葉にかずえは首をかしげる。
「自分の手で守れなかった後悔と、相手が死んでもすぐにそばにいける事の出来る手段。……いや、違うな。リョウは見つけてしまったのさ。それを失ってしまった。魂の片割れとも言えるカオリを」
「……魂の片割れ……そういう表現が似合っているのかも知れないわ。あのふたりは。離れられない事が分かっていながら、離れようとする。昔のあの二人を見ていると、ホントこっちが片思いしているのに、どうにかしてくっつけようって考えちゃったわ」
思い出すようにかずえは隣のマンションを眺める。
「だから、奴の周りにはおせっかいが多いわけか…」
「ミック、あなたもその一人でしょう?」
かずえの言葉にミックは苦笑する。
「違いない」
ミックは手元に目をやり言葉を続ける。
「裏の世界に生きる人間で、……そう言う『魂の片割れ』を見つけてしまうのは、ある意味不幸なのかも知れない」
「ミック……」
「でも、それでもいいと今のオレは思う。オレが君にやっと出会えたように。ファルコンにはミキがいるように。リョウにはカオリがいた。残ったオレ達はあの二人の死を悼むけど……それでもあの二人はその方が幸せだと思う。愛する者のために死ぬ。いや、愛する者と共に死ねる。それが一番理想なんだよ。それが、出来ないのさ。裏の世界の男は……」
「……あなたはどうなの?」
問い掛けるかずえにミックは小さく微笑む。
「決まってる。いつまでも理想を追い求める。君と共にある為にね」