「聞こえてる」
そう答えた。
香の聞きたい事は全てカットして。
今、口を開けば何が出てくるのか、おれ自身想像がつかなかった。
つかんでいる香の手は意識すれば壊れそうなほどに小さかった。
香を半ば強制的にリビングのソファに座らせ
「コーヒーを持ってくるから動くな」
と命じ、リビングを出て、キッチンに入ってから撩は大きく一つため息をついた。
そして乱暴に髪の毛をかきむしった後、コーヒーを入れる準備をする。
キャッツアイからマンションに戻る間、香は何度も言いたそうに自分の顔を見る。
もちろん、言いかけもした。
それを撩は「後で聞く」と言って全て遮断した。
撩は香が何を言いたいのか分かっていた。
最初はまず「ごめん」
その次は「また、迷惑かけちゃったね」
連れ去られた後、いつもそのパターンで香は言葉を紡ぐ。
香のせいではないと言うが香はそれでもと答える。
堂々巡りの中でいつも折れるのは撩だった。
だから、今日は全てを遮断した。
「後で聞く」とそう答えて。
もちろん、聞くつもりなど毛頭ないが。
タバコに火をつけて煙を吐き出す。
これから新宿は少し騒がしくなるのだろうか。
シチリア・コネクションとルチアーノ組と新興勢力の暴力団ではあるが力は強い集英会。
抗争はおそらく避けられないかも知れない。
最も、シチリアコネクションのボス『カルロ・ルチアーノ』と集英会のボス『松永』は死んだ。
もしかすると抗争どころではないかも知れない。
そのうち、騒ぎは起きるかも知れないが。
だが、そういう面々とあまり関わりを持ちたくない撩としては、情報としては必要だが、興味と言う観点からすればすでにどうでもいい事となっていた。
さしあたって、今の撩の問題は一つしかない。
そう、『香』の事だ。
兄の親友だった撩と親友の妹だった香。
一人の人物を間接的ではあるが介して撩と香は出会った。
船で、不安そうに座っていた香の姿を見た瞬間、一気に自分の血が全身を駆け回るのを感じた。
全てを排除して、このままここに閉じこめて、自分たちだけにしてしまおうか。
そんな事を一瞬ではあるが本気で考えた。
すぐに正気に戻ったのは香が自分を呼ぶの声のおかげで。
それと、ここへ来た目的。
香の救出…と言うよりも奪還とルチアーノへの報復。
あのルチアーノからの電話は撩の神経を逆なでするには充分すぎるほどの威力を持っていた。
香をイタリアへと連れていく?
香が自分の側からいなくなる?
今まで考えようもしなかった事が現実に起こるかも知れない事に撩は信じられなかった。
香は、ずっと自分の側にいると信じて疑ってもいなかったのだ。
…とそこまで考えて愕然とした。
香を手放そう。
香を表の世界へ戻そう。
そう考えた事が何度もあったからだ。
裏の世界にいる自分の側にいると言うことは、彼女の未来には暗いものしか待ちかまえていないという事になる。
だから、手放した方がいい。
そう幾度も考えた。
香に本心をわずかではあるが吐露するようになってからも。
あの奥多摩で自分の本心を告げた後も。
このままでいいのか、それとも離れるべきなのか。
香が誰かに狙われたり連れていかれそうになったり、連れて行かれたり。
そうした時に決心はやはりぐらつく。
このままでいい。
このままで良くない。
そう何度も考えた。
だが………。
「放す、放さないよりも………」
離れたくないんだな………。
と声にならない声で撩は呟いた。
離れるのであればそれは簡単だった。
自分は裏の世界の住人。
住み慣れた、そして生きやすい新宿を離れるのは忍びないが、何処でも生きていく事は出来た。
それをしない、出来なかったのは、香がいたからだ。
裏の世界の人間が姿を隠すのは簡単だ。
誰にも見つからないで日本を離れる事も可能だ。
だが、そうする事も考えつかない、思いつかない。
いや、頭の片隅に追いやったのは、自分が離れたくない、放したくないからなのだ。
その事実に、撩は今日まざまざと思い知らされた。
いや、分かっていたはずだった。
それを認めたら、止まらなくなるだろう。
全てが。
今までもそうだった。
連れ戻した後、香を閉じこめて、外との接触をさせたくなくなる。
香の中で撩以外、何も立ち入れさせたくなくなるのだ。
だが、それが許されるはずもない。
だいいち、周りが怪しむだろうし、香がそれを許すはずがない。
それを抑える為に、外にでて発散する。
そして香が怒る、悪循環になるとしても。
香をこれ以上傷つけないようにするにはそれ以外になかった。
裏の社会No.1の椅子は思う以上に血に埋もれている。
その椅子に座り続ける自分に香はそれでもいいと笑っている。
それだけで、撩は香には許されていると納得するのに、香は気付かない。
気付かない方がいいとさえ、撩は思っていた。
そうすれば今の関係を続けられる。
あまりにも居心地のいい、ぬるま湯の様な関係のまま続けるのも悪くはない。
だが、このままでは良くないのももちろん分かっていた。
そしてきっかけさえあれば、自分たちは先へと進めるとも…。
だけども、香を傷つけるのだけは怖かった。
コーヒーのマグカップを撩には珍しく暖め、でき上がったコーヒーをカップに注ぐ。
鼻孔を通り抜けるコーヒーの薫りをゆっくりとかぎ、香のマグカップには砂糖を加え、香がまつリビングへと向かう。
リビングに入るとどことなく不安そうにしている香は両手で自分の身体を抱いている。
ルチアーノの船から戻ってきた時そのままのタイトな黒のドレス姿のままでは寒いのだろう。
そして、近づくと、何故か笑っていた。
その笑みは苦笑ともとれる笑みで、だがその笑みの理由が分からない撩は香に声をかける。
「何、笑ってるんだ?」
「え…別に……」
案の定答えない香にため息を小さくつきながら撩はマグカップを手渡す。
「ま、言いたくないんならそれでもいいんだけどな………」
苦笑いして撩はソファに座る。
腰を下ろした場所は、香の隣。
そして、その撩の行動に驚いて一人分開けた香に撩はもう一度苦笑した。