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今日、仕事が終わってから雄別に行きましたら、ゲートのところに工事標識がありました。10月10日までと書いてありました。時間は7:00〜18:00と書かれていましたが、実質夜間もゲートは閉じられています。
今日は、夕張の清水沢発電所跡に行ってました。解体されてないかと、時々見に行きたく・・・
1945年11月 尺別山 緑町2丁目から雄別炭山1区本 町え引越し 家財が到着まで 2区月見台の上に有った 修和寮で4日程過ごし1区の講買側 引込ホームに降ろ された荷物は会社のトラックで本町の上長屋と言われる 10棟の中に落着きました 1棟6世帯入居 6畳. 4畳半と言う間取りです 神社の山と坑内資材搬入巻 との平地で 近くに炭車修理工場.電車用直流変電所等
購買会の屋上への階段の上にあった瓦礫を全て取り除いてみました。意外に広い階段で、階段の途中に踊り場があり、壁際に水道管らしきものがありました。ローズで使う水のための水道管でしょうか?雨漏り対策として、屋上にブルーシートを張ってみましたら、効果があったようです。床が乾いていました。
本日、草刈りで、山の手コースを開通させました。職員合宿→山の手2丁目→山の手1丁目→駅前商店街まで、つまり、通勤経路です。まだ、所長宅前はまだです。後ほど・・・「切符編」「エピソード集」を更新しました。
釧路 平戸前(ひらとまえ) おんねびら ゆっぱない 舌辛(したから) こたん 雄別炭山 といってた 後に 北斗 山花 桜田 阿寒 古譚 雄別炭山 埠頭行きの鳥取信号所があった(中園となった) 新釧路駅にプラットホームがなかった
布伏内地区に炭住が出来て通勤のために 通い橋ができ コタン駅と炭山駅の中間にプラットホームでき乗降り していたので 中間駅とよばれた 真澄町に職社宅が出来て橋とホームがつくられた
HPの目次に「雄別鉱業所の思い出」があります。齊藤@横浜氏の労作です。そのなかの坑内の思い出に運搬の人が連絡のための電話で相手に話しかける言葉が、「もーし」と言うのを聞き興味深かったとあります。3連休なのである本を読んでおりましたら江戸時代に相手に呼びかける武家言葉が、「申し(もうし)」とありました。申し上げるが短くなったものです。そしてこの申しは明治以降武家だけでなく一般にも使われたとありました。そこで私はこの言葉が北海道に渡り、「申し」が「もうし」→「モーシ」と電話のでる時の言葉になって炭鉱に残っていたのではないかと妄想しました。妄想とあえて書いたのは自分がそう思っただけでなにも調べてないからです。調べてみたいですがどのように調べるのかからまづ考えたいと思います。
札幌で雄中23期(最後の卒業生)の同期会14日開かれました今終わってホテルに帰ってきたところです卒業後初めて会った方もいって懐かしい時間をすごしましたそんな話題も載せても良いですよね
1945年11月 釧路駅 5番線 デッキに鎖のついた 客車が3〜4輌 窓は少し持ち上げて下えおろすやり方 です 11月の はじめごろで まだ ダルマ ストーブは取り付けしてなかった
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